話が一向に元に戻りませんが、あくまでも現在は、加賀藩邸内の長屋建物群の出土製品がらみで、染付小皿についての話をしているところです。出土している製品の生産地の事情に話が飛んでしまって、なかなか収拾が付かない状況にはなってますけどね…。
前回お話ししたとおり、有田には中級品生産の山としては外尾山と黒牟田山しかなく、しかも、外尾山窯跡には並行して2、3基の窯体があったかもしれませんが、黒牟田山の多々良の元窯跡はたぶん1基だけですので、中級品生産の山自体の規模はそんなに大きくありません。
ちなみに、多々良の元窯跡はたぶん1基だけって言ったのには理由があって、17世紀後半~18世紀前半の窯体は発見されてないからです。17世紀前半頃には複数の窯体が併存していたのは分かってますが、前にお話ししたとおり、その後はおおむねどこの山でも、一つの窯場に多くの窯体が併存するようなことは少なくなります。
多々良の元窯跡でも窯体は発見されてませんが、物原は残ってますので、その位置から、窯場内のあっちゃこっちゃに同時期の窯体が散在してなかったことは分かります。物原の位置から考えると、たぶん隣接する18世紀後半頃から近代まで続いた最後の窯体の築窯時の大造成で、完全になくなってしまったんじゃないでしょうかね?
17世紀後半~18世紀前半頃の間だと、期間的に窯体は最低2基はあったはずですが、規模はかなり大きいですので、一切の痕跡を残さず削平するのは、逆にかなり難しいと思いますよ。でも、18世紀後半以降の築窯の際の造成ってのは、それまでとは荒っぽさが違いますのでね…。つーのは、もちろん窯体もさらに大きくなりますので、窯体を築くのに必要な面積も大きくなるわけですが、焼成室規模だけじゃなくて焼成室数も多くなる傾向にありますので、全長が100m超なんてのも珍しくなくなるわけです。
そうすると、です。そんなでかい窯を築くのにマッチした地形なんて、そうそう都合よくはないわけです。それ以前の窯でも、決して小さいわけではないので、もちろん、多少は埋めたり削ったりはしてますよ。
なかなか合理的な例では、下南川原山の南川原窯ノ辻窯跡なんかがそうですが、窯を築いて失敗品を次々に隣接する谷に捨てていくと、最後は谷が埋まってしまい平らになります。そうすると、その上に新しい窯体を築けば、ほとんど土木的な労力もなく、築窯場所が確保できるという具合です。南川原窯ノ辻窯跡は1650年代頃から近代まで続く窯場で、4基の窯体が発見されてますが、そうやって順次谷を埋めながら、新しい窯体が築かれています。カシコイですね。
まあ、でも、そんな都合のいい地形はそうそうないので、パワープレイに及ぶことも珍しくないわけで、大がかりな土木工事をして、すっかり地形を変えてしまいます。有田の窯業地は黒髪山山系に集中していますが、地質は磁器の原料の陶石と同じ硬い流紋岩の岩山で、岩の上に薄らと土が乗っかってるようなもんです。なので、悪天候の時などには、まれですが、ズドンと地滑りが起こったりもします。そんで、18世紀後半以降の登り窯だと、この流紋岩の岩山ですら大々的に掘り抜いて窯を築いたりするわけです。従来の、原則的に地形に合わせて窯体を築くという手法から、窯体に合わせて地形を成形するって感じです。
つーことで、残念ながら、本日は染付小皿どころか、やきものすら出てきませんでしたね。まあ、こーいうこともありますわ。また次回。(村)